「生誕140年記念 川合玉堂 展」山種美術館
大々的な川合玉堂の展覧会。
「日本のふるさと・日本のこころ」
の副題が示すとおり
日本人のこころの奥底に眠る
郷愁を呼び覚ます
素晴らしい展覧会です。
館長のレクチャーに沿って
館内展示を一周する幸運にも恵まれ
より味わい深いものとなりました。
川合玉堂と言いますと
同時代の
横山大観や竹内栖鳳と比べ
今ひとつ地味な存在
などと
言われもします。
けれども
私にとっては
親戚を訪ねると寄った
玉堂美術館
雨の日のドライブデートで
立ち寄った
玉堂美術館
と、
幼い頃から
大変親しみのある画家なのです。
ふるさとを離れて幾歳月
の現在、
古い記憶を辿る楽しみもあって
足を運んだのですが。
さすがは
山種美術館!
コレクションの質が高く
初めて見る絵がほとんどでした。
玉堂の画業の素晴らしさを
たっぷりと
堪能出来ました。
まず、
玉堂の略歴が紹介
されています。
1873(明治6)年 愛知県に生まれ、
1881年 8歳のとき一家は岐阜へ移住
高等小学校卒業までを過ごす。
1887年 14歳で京都の望月玉泉に入門、のちに幸野楳嶺の画塾に入門し、
円山四条派を学ぶ。
相次いで両親を亡くし、20歳で親戚筋の大洞富子と結婚。
1895年 22歳で出品した「鵜飼」が内国勧業博覧会で三等を受賞。同時に出品されていた橋本雅邦の画に衝撃を受け、翌年、妻子を伴って上京。
以後、玉堂の年譜は
橋本雅邦の門下での目覚しい活躍で華やかに彩られます。
1898年 25歳で日本美術院の創設に参加、1915年 42歳には東京美術学校の教授に。1940年 67歳の時に文化勲章を受賞。枚挙に暇がありません。
その後は戦火を逃れ、東京都西部へ疎開。そのまま青梅市御岳に居を移します。玉堂晩年の題材は多く奥多摩の自然から生まれているといえましょう。
1951年 78歳には文化功労者に。その年金で日展に川合賞を設け、亡くなるまで優秀な作品を買い上げ国に寄贈。
1957年6月30日 永眠。
その足跡は
下記のように展示されています。
アルファベットと数字は
下記図をご参照下さい。
アルファベットはガラスケースです。
展示構成
第1章 研鑽の時代(青年期から壮年期へ)
a, ①, ②
第2章 玉堂とめぐる日本の原風景
b, c,
③〜⑦
第3章 玉堂のまなざし
d,
⑧
合作
⑨
第二会場
動物をいつくしむ
(山種コレクションルーム)
参考出品
を含め
前期(〜7/7) 79点
後期(7/9〜8/4) 80点
です。
それでは
明日より
その絵を見ていきたいと思います。
(310日目)